「辞めろ」とは、一度も言われませんでした。言われたのは、もっと静かな言葉ばかりでした。今後のキャリアを一緒に考えたい。この部署では、もう任せられる仕事がない。君の席、来週からないから。
この記事の要点
- 「辞めろ」という言葉がなくても、面談の回数・場所・同席者は記録に残せます
- 退職を勧めること自体と、断っても繰り返される働きかけは、扱いが異なるとされています
- 仕事を与えない、隔離するといった行為は、パワハラの類型として示されています
- 退職届にその場で署名する必要はなく、持ち帰って相談することができます

この記事に出てくる人物と会社は実在しません。報道や統計、公表されている裁判例に共通して見られる経過をもとに、特定の個人が分からない形で再構成した架空の事例です。
面談は、月に二度になった
最初の面談は、組織変更の説明という名目でした。会議室に入ると、上司のほかに人事の担当者が座っていて、話は三十分ほどで終わりました。要点は「今の等級に見合う仕事が用意できない」ということでした。
二度目は二週間後、三度目はその翌週でした。回を重ねるごとに、話は「これからどうしたいか」に寄っていきました。転職の相場、退職金の上乗せ、いま決めれば有利になる条件。断るたびに、次の面談の日程が決まりました。
強い言葉は使われませんでした。ただ、断ったはずのことが、次の週にはまた最初から始まっていました。
席がなくなった日
四か月目に、フロアが変わりました。新しい席は、使われていない会議室の隅でした。担当していた案件はすべて引き継ぎになり、代わりに渡されたのは、期限のない資料の整理でした。
チームのチャットからも外れました。悪意のある言葉をかけられたわけではありません。何も起きない日が、ただ続いただけです。それが一番こたえました。
その頃には、自分が何を我慢していて、それが何か月続いているのかも、はっきり言えなくなっていました。
何が起きていたのか
会社が退職を勧めること自体は、直ちに違法とされるわけではありません。一方で、労働者が断る意思を示しているのに、長期間・多数回にわたって繰り返されたり、態様が相当な範囲を超えたりする場合には、違法と判断されることがあるとされています。線引きは、回数・期間・場所・言い方・その人の置かれた状況などを踏まえて、個別に判断されます。
厚生労働省は、職場のパワーハラスメントの代表的な行為として6つの類型を示しています。そのなかには、隔離・仲間外し・無視といった「人間関係からの切り離し」や、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じる、仕事を与えないといった「過小な要求」が含まれています。
令和7年度の「過労死等の労災補償状況」では、仕事が原因の精神障害として労災の支給が決まった1,082件のうち、出来事別で最も多かったのは「上司等からのパワーハラスメント」の222件と公表されています。静かに進む状況でも、健康への影響として現れることがあります。
ただし、自分の状況がこれに当たるかどうかを、自分で決める必要はありません。判断はその役割を持つ窓口や専門家に委ね、こちらは起きたことを残しておく、という分け方ができます。
面談のあとに残した5項目
三度目の面談のあとから、帰りの電車で書きはじめました。会話の全文ではなく、次の5つだけです。
- 日時と場所(「10月14日 15時〜15時40分、6階の小会議室」)
- 同席者(「上司A、人事B」。誰が話したかも分けて書く)
- 言われたこと(覚えている言葉をそのまま。思い出せない部分は「正確な文言は不明」と書く)
- 自分が答えたこと(特に「退職の意思はない」と伝えたかどうか)
- 次の約束(次回日程、提出を求められた書類、期限)
「断ったこと」を毎回書き残しておくのが、あとから効いてきました。断った回数と日付が並ぶと、同じ話が何度繰り返されたのかが、自分の主観ではなく順番として見えるようになるからです。
あわせて、席の移動やチャットからの除外、担当案件の引き継ぎといった環境の変化も、日付とともに残しました。異動の通知メールや座席表、引き継ぎの依頼といった手元の資料は、加工せずそのまま保管しておきます。会話を録音するかどうか迷ったときは、録音の扱い方についての記事もあわせて参考にしてください。
きろくねでは、こうした出来事を日時順に残して、あとから見返せます。誰かに見せるかどうかは、後から選べます。
その場で署名しない、という選択
面談の場で退職届や合意書を出されたとき、その場で署名しなければならない決まりはありません。「持ち帰って考えます」と伝えて構いません。署名を求められた書類の内容と、いつ・誰から渡されたかも、記録に残せる事実のひとつです。
その場で決めるよう促されたときは、そう言われたこと自体を、あとで書き留めておいてください。
相談できる場所
退職を迫られている状況は、全国の労働局や労働基準監督署内にある総合労働相談コーナーで無料で相談できます。予約なしで相談できる窓口が多く、「これがパワハラに当たるか分からない」という段階でも構いません。
厚生労働省の「あかるい職場応援団」には、ハラスメントの類型や相談先の案内がまとまっています。退職条件や合意書の内容について法的な見通しを知りたいときは、法テラスで無料法律相談や弁護士費用の立替を利用できる場合があります。
眠れない、朝に体が動かないといった状態が続くときは、記録より先に受診と休養を優先してください。きろくねは記録を助ける道具で、診断や認定、法的な判断は行いません。
よくある質問
- 退職を勧められること自体は問題ないのでしょうか?
会社が退職を勧めること自体が、直ちに違法とされるわけではありません。一方で、断る意思を示しているのに長期間・多数回にわたって繰り返される、態様が相当な範囲を超えるといった場合には、違法と判断されることがあるとされています。個別の判断は、総合労働相談コーナーや弁護士などの専門窓口に相談してください。
- その場で退職届に署名を求められたら、断ってよいですか?
その場で署名しなければならない決まりはありません。持ち帰って検討したいと伝えることができます。渡された書類の内容と、いつ・誰から渡されたかを記録に残しておくと、後から相談するときに説明しやすくなります。
- 仕事を与えられないだけでも、記録する意味はありますか?
あります。仕事を与えない、隔離する、無視するといった行為は、厚生労働省が示すパワーハラスメントの類型に含まれています。何も起きない状態は説明しづらいため、席の移動・担当案件の引き継ぎ・連絡から外された日付など、変化のあった日を残しておくと、経過を追いやすくなります。
- 面談を録音してもよいですか?
録音の評価は目的や方法などによって異なるため、一律に「証拠になる」とは言えません。録音できない場面もあります。まずは日時・同席者・言われたこと・自分が答えたことを文字で残す方法から始められます。扱いに迷うときは専門窓口に確認してください。
出典・参考
きろくねは記録を助ける道具です。診断・認定・法的な判断は行いません。危険やつらさが強いときは、公的な窓口や専門家への相談もご検討ください。